第2回「なぜ仕事しないといけないのかの悩み」/社会不適応の自分が適応してきたこと
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最初は恥ずかしかったのですが、「社会不適応な自分の本当の性格」について正直に書かせていただきました。書いているうちに素直な自分、正直な自分を開放しているようで清々しい気持ちになってきました。
今回はその第2回目です。
『自意識過剰』『気にしい』『人見知り』『消極的』というどうしようもない性格の自分が社会に出るのも恐くて怯えていたのですが、嫌でもその年齢になってしまい社会に出て仕事をすることに「なんで仕事なんかしないといけないんだ!」と疑問を持ったことについてお話ししたいと思います。
私は中学・高校と生まれた町にはそれぞれ1校しかないド田舎の学校で高校3年でになり、やりたいこともなく、目指すこともなく、どうしようかと考えていました。
「そんなの社会にも出でねえのに見つかる訳ねえべ~!(方言)」と思っていました。
それでも周りが就職が決まったり、進学が決まっているので自分もとりあえず、「姉ちゃんがいる東京に行って考えよう」と安易に考え夜間の短大に入学しました。
はじめての一人暮らしで心細くなり、最初の1週間はテレビのチャンネルがいっぱいあって、ずっとテレビに夢中で何を見ようか考えるのだけが楽しみでした。
そして短大に通いはじめ、親から言われていた喫茶店のアルバイトもはじめました。
夜間の短大だったので朝の10:00~17:00までアルバイトで18:00~21:00までが学校です。立ち仕事がきつくて日々足が棒のようになって硬くなっていくのを感じました。そして、平日は大好きなテレビを見る時間もなく、田舎者の情報量の少ない私にとっては喫茶店のオーナーの普通の話しについていけず、つまらない人と思ってしまい毎日のオーナーとの話しが苦痛で苦痛で嫌になっていきました。
そして、2ケ月で喫茶店のアルバイトに連絡もせずに辞めてしまいました。
そのような辞め方をしたので「自分には仕事は向いてない」と思うようになりました。
本来持っているネガティブな性格が出てきたのです。
そして、アルバイトのもらったばかりの給料で2ケ月暮らせば夏休みになるから実家に帰って2ケ月はのんびり暮らせるので、2ケ月は学校に通うだけにしました。
お金の使い先もなかったので、1ケ月4万円もあれば十分でした。
毎日、昼に起きて「笑っていいとも」を見て、テレビ東京の映画を2時間見て、それから歯を磨いて学校に行くような生活をしていました。
最初の1週間は大好きなテレビを見るのが楽しかったのですが、だんだんと自分の将来を考えるようになってきました。この変にまじめなところも私の性格です。
短大なので2年後には社会に出て仕事をしないといけないからです。
その不安がどんどん大きくなっていきました。
「なんであんな楽しくもない仕事なんかしないといけないのだろう?」
「誰が仕事をするという仕組みを作ったんだろう?」
「仕事しなくても昔は自給自足で野菜育てて、魚釣って生活してたからそれでよかったのに...」
「自分が生まれてくる時代を間違えたな~もっと昔だったら楽だったのに...」
「仕事なんかしたくない、もう実家に帰ろうかな?」
こんなことばかり考えていました。
時間があるから、自分の内向的なネガティブな性格の中だけで悩んでいたのです。
学校帰りの夜に道を歩いていて、味噌汁のにおいがしてくると
「これから先は自分はお金も多く稼げないし、彼女もできないし、結婚もできないから、こんな普通の家庭も絶対つくれないよな...」
「自分がこれから先、自宅に帰っても味噌汁がにおうことは絶対にないだろうなぁ...」
と思ったら、将来は不幸な人生しかないと感じ、道を歩きながら涙が目にあふれてきました。
将来に何の明るい希望もなく、ただ学校に行って帰ってきて、忙しくもない生活で余計な悩みを考える時間だけはあって、寂しさもあり、どんどん自分の殻の中に閉じこもってきていました。
そして、悩むだけの2ケ月が終わり、やっと夏休みで実家に帰りました。
進学した友達も帰ってきて、楽しい2ケ月の夏休みでした。
毎日、友達と海やプールに行ったり、友達の家の車で深夜にドライブに行って楽しんでました。親からもらったお小遣いでです。
そして、また、東京に帰ることになり、親からは仕送りはあまり増やせないからアルバイトするように言われ、今度は事務職をと思いよくわからないまま投資会社のアルバイトをはじめました。
この職場ではアルバイトをしている先輩が年上の学生ばかりで年下の私を可愛がってくれました。クリスマスイブにはみんなで銀座のカラオケパブに行って、多くのお客さんの前でカラオケをはじめて歌わされ、どきどきしながらも開き直って歌ったら楽しかったのを今でもよく覚えています。
正直、怪しい投資会社のテレアポの仕事だったので大変だったのですが、自分の面倒を見てくれる先輩がいて本当に居心地はよかったです。
このあたりから、怪しい仕事でも支えてくれる先輩や仲間がいれば、「こんな自分でも仕事ができるんだなあ...」とあらためて気づかせてくれました。
だから、続けることができ、この当時いたメンバーでもっとも長く勤めたのは気がつけば自分でした。
時給は高めでアポ取りがやや過酷だったのですが、勤務しているうちに怪しい会社だとわかっていったのですが、それをやり続けた経験も自分の少しの自信になりました。
この仕事で社会人のしゃべり方をトレーニングしてもらったのがよかったです。
そして、短大卒業が近づいても自分のやりたいことは見つからず、就職活動もやる気がなく、上京してから2年になるのに「なぜ仕事しないといけないのかの悩み」は私の中では続いていました。
アルバイトが休みの日はこんなことを考えていました。
◎アルバイトでこのまま一生過ごしてもいいかな...
◎そうだ、どこか沖縄あたりの無人島にでも行って本当に自給自足してみようか...
◎住むのも家賃がかかるから、湯治場のような旅館で住み込みで布団敷きでもしようか...
◎何年かだけ働いて金貯めて東南アジアの物価の安い国に行って、働かないで暮らそうか...
そして、卒業してこの怪しい会社への就職も進められましたがお断りして、そのまま続けて勤めてフリーターをしていました。
しかし、その数ケ月後にこの会社の女子社員とつきあっていたことがバレて退職することになりました。
そこからは、短大も卒業したので仕送りもなくなり、社員の仕事を探さないと生活できなくなるという危機的状況になりました。
そして、当時つきあっていた女子社員からも「私がいると甘えてしまうから就職がきまるまで会わない」と言われました。
このように「仕事をする意味」を理由にして悩んでいるうちに自分の生活も危うくなり、つきあっていた人も離れ追い込まれました。
悩んでいる暇はなくなり、必死に探しました。
こんなに必死になると求人募集をみているだけで「この会社に入ったらこんな感じかな?」と勝手に妄想しながらも前向きになり、楽しくなっていきました。
あれだけ長年悩んでいた「仕事をする意味」という気持ちどころではありません。必死さと想像する楽しさで、ネガティブだった私が見違えるようにポジティブになっていったのです。
そして、このような精神状態だと面接にいっても懸命さが伝わり、小さな会社でしたが見事に合格しました。
他も候補があったのですが、初めて正社員に合格した喜びだけでこの会社に決めました。
結局、「仕事をする意味」については結論出せないままでしたが、自分が追い込まれたことでそれを乗り越えたことがただただ満足でした。
結局は社会からの「承認欲求」が満たされたことが仕事をする意味よりも上回ったのです。
私が本当に求めていたのは「仕事をする意味」ではなく、
「自信がない自分でも社会から認めてもらいたいという」感情だったのです。
それが「仕事」をする意味だと知りました。
結局、世の中の役に立ちたいというまじめな思いでした。
昔読んだ小説の一説で今回の悩みが心にストンと落ちた大好きな言葉です。
『人生には「考えるべきこと」と「考えなくていいこと」がある。考えなくてもよいものを捨てるのが生きる知恵だ』