第7回「社会不適応のはじまりは小学校から」/社会不適応の自分が適応してきたこと
第7回は小学校の頃からつまずいたお話しです。
私は物心ついた頃から、家族も人も大好きでした。
それは、誰もが自分のことをかわいがってくれるからです。父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんもです。そして、近所の親戚の人もみんなかわいがってくれていたからです。
自分で言ってしまいますが、子供らしいかわいい顔してたし、人が好きなのでいつも人と会うと自然にニコニコしてました。
そして、出掛けて自分だけお菓子を買ってもらうときには必ず「姉ちゃんの分は?」と言って一緒に買ってもらっていました。
裕福な家庭ではなかったので、お菓子は最高のご褒美で家に帰って姉ちゃんと一緒に食べて両親にも少し食べさせてあげたかったからという思いやりもあった子供でした。
みんながそれでニコニコして笑うのが大好きでした。
しかし、姉ちゃんは両親にはあげずに自分だけで食べてました。
それがちょっと嫌でした。
根っからの平和主義で生まれてきたのだと思います。
姉ちゃんの影響なのか保育園ではいつも女の子とばかり遊んでいました。自分の左右にはいつも女の子がいてよく手をつないでいました。それが普通だと思っていました。
このように周りに甘やかされたまま小学校に入学しました。
すると思いもよらないさまざまな出来事がやってくるのです。
入学式の初日に隣の席のはじめて知った女の子と手をつないで体育館に入場して、退場も手をつながされましたが、自分にとっては女の子と手をつなぐのは普通のことで、その日の休み時間に遊びに行くときも隣の席の女の子の手を握り、一緒に外に行こうとしたのです。
すると手を振り払われて、嫌な顔をされて「なんで手をつながないといけないの?」と言われて行ってしまいました。
何が何だかわからずショックでした。外に行くのに手をつなぐのは当然と思っていたからです。
それから、その隣の子とは話をすることもできませんでした。
そして、よく見てみるとクラスの男女が分かれてグループになっていました。女の子と一緒にいる方が安心できたのですが、この小学校という世界ではあまり一緒にいてはいけないようだと気がつきました。
このように小学生のはじまりの出足をくじかれてしまいました。
変に意識してしまい、女の子とも男の子ともあまり遊べなくなりました。
それからは一人でいることが多く笑顔も少なくなっていきました。
勉強も本格的にはじまりましたが、ここまで「本能と安心の中」で生きてきたので勉強をする意味すらわかりませんでした。
恐らく私の社会不適応のスタートはここからはじまったのだと思います。
その小学校生活がはじまってから、新しい家ができて引越しすることになりました。
これまで住んでいた家には親戚や小さい頃からの友達が近所にいましたが、新しい家の近所には親しい人もいなくて登下校も一人になり、更に社会不適応に拍車がかかりました。
毎日、家に帰ってテレビを見ることだけが楽しみでした。
家では生き生きしていたので「外に遊びに行きなさい!」「内弁慶なんだから...」と家族から言われていました。
これまで守ってくれた家族にまでそんなことを言われて更に自信をなくしていきました。
姉ちゃんはバレー教室・そろぼん教室・書道教室・ピアノ教室などいろんなことに興味を持っていたのですが、当然ですが母親は私にもっと積極的になってほしかったようで姉と一緒のそろばん教室や書道教室などさせてみましたが、私が一切やる気がなく、1日ですぐに行かなくなりました。
そして、私に「何も続かない!意地もない!」と怒られ、「親戚の〇〇ちゃんは一生懸命勉強して頭が良くてすごい学校に入りそうだけど、お前は成績も悪いし何も続けられない!」と今度は更に比べられるようにもなりました。
自分は「何もできないどうしようない人間なんだ!」と思い込むようになりました。
このような暗い小学校生活だったのですが、小学校3年生のときの担任の先生が私に何かを感じたようで気にかけてくれていました。
そして、いつも手をあげて答えることはない自分が国語の時間にその先生から差されて自分の意見を言わされたのですが、自信なく回答したのですが、ものすごく褒めてくれました。
「大人のような意見で素晴らしい」とまで言ってくれました。
ダメな人間だと思っていた自分が褒められることなど一度もなかったので、嬉しくて嬉しくて、国語も頑張りましたが他の教科もがんばるようになっていきました。
そして、人が変わったかのようによく手を上げて答える生徒になっていきました。成績も伸びて、クラス委員などにも立候補をするといつも当選していました。
不思議な思いでしたが、やって小学校が楽しくなりました。
先生がきっかけを作ってくれたことは幼いながらもわかり、心から感謝しました。
小学校4年生で先生は転勤になりましたが最後に何かお礼をしたくて、千羽鶴を折りたかったのですが、1つ作るだけでも大変で30羽鶴になってしまいましたが、先生の家に持っていき先生にお礼を言ってプレゼントしました。
先生は思ったほど喜んではくれず、なんでプレゼントをもらったのか不思議に思っている様子でした。
そんなこんなで社会不適応だった自分がやっと上向きになりました。
というかやっと小学生レベルになったのだと思います。
この先生と巡り合っていなかったら、暗い道を進んでいじめの対象になり、不登校や引きこもりにまっしぐらに進んでいたのではないかと思います。
この経験を今でもよく覚えているのは、こんな先生のように「弱い自分と戦っている人」「悩んでいる人」「迷っている人」に自分がきっかけを与えてもらったように、与えられる人になりたいと幼いながらも思ったからです。
こんな自分でもそれくらいは、できる人になりたいと思い、社会人もやってきました。
これが私のやり続けたい人のためになることなのだろう!と思います。
こんな社会不適応な私でも誰かの役に立てたらなどと大それたことを思って生きてます。