単身赴任を自ら進んでやってみたがやっぱりさみしい
私は入社したばかりの会社で3ケ月で部署異動があり、その3ケ月後には転勤の打診がありました。
「俺って結構、評価されている!?」と思ったこともありますが、会社が伸びている時期で新たな事業所もどんどん作っていたので独身の男性は特に転勤の標的になっていただけだと後からわかりました。
別のページでも書いてますが、1度は断りましたが、その後、「転勤するか辞めるかだ」と言われて仙台から千葉へ転勤したのですが、それ以降、どんどん転勤してやろうとも思っていたのですが、転勤を言われる前にこちらから転勤を申し出るような人間になりたいと思うようになりました。
そして、これ以降は自分から進んで転勤するようにしました。会社から言われる前にあの拠点は大変そうだから「行きましょうか?」と会社に提案するようにしました。
あるとき、北陸の拠点で不正なことがあり、そこの所属長が原因だったのでほぼ即日に退職になりました。その上司の部長はこの拠点を自分で立ち上げながらも自分の転勤はしたがらない人でどうするのかな?と思ってましたが、現場の社員に話を聞くと本当に大変な状況のようでした。
そこで、「私が行きましょうか?」と提案しました。私の拠点は次の所属長にできそうなメンバーを育てていましたので、まかせてみたいと思って、自分の部署もきちんと考えての提案なのですぐに「転勤が決定」となりました。
その頃は妻も子供もいて子供も小学校1年生だったのとマンションを購入していたので単身赴任になりました。自分も1度、単身赴任をやってみたかったというのもあります。
そして、単身赴任に出発するときに、この日ばかりは近くの駅まで車で送ってもらったのですが、車に乗ったときから、それまでの元気だった子供が元気がなくなり、車の中で無言になって顔をさげたままになりました。名前を呼んでも「うん」しか言いません。
そして、駅に着いて「じゃあ、パパ行ってくるね」と言うとずっと我慢してたらしく、大粒の涙で「パパ、行かないで!行かないで!」と泣きじゃくりはじめました。子供はこんなに辛かったことをがまんしてたんだ!こんなに辛い思いをさせてしまったんだ!と心が痛くなりました。今までこんな思いになったことはありません。「俺はこの子を悲しませることを進んでやってしまったんだ」「なんてことをやってしまったんだろう」と思いました。
私も今にもあふれそうな涙を我慢して心を鬼にして車の扉を閉めて、手を振りましたが、幼かった頃のように母親にしがみついて泣いていました。後ろ髪をひかれるとは正にこのことだと思いました。
私も本当に涙をこらえるのがやっとで、新幹線に乗り、座席につくと涙があふれ出てきました。声もつい出そうになりながら、それを押し殺してハンカチで目を押さえ、周りに知られないようにと涙をハンカチに吸い込ませて落ち着こうとしました。
するとメールが来て「あの後、30分くらいずっと車で泣きっぱなしだった。パパは今度いつ帰ってくるの?」と聞いてきたとのことでした。
私も新幹線の中で気持ちが落ち着きはじめたときだったので、このメールを見てまた涙が出はじめてしまいました。
そして、今度は子供のための転勤をしよう。そのためにはこれから担当する拠点に所属長をきちんと育成し、帰ってこようと決意しました。
その後についてですが、子供は「パパに手紙書きたい」と言ってくれ、手紙を2回ほどもらい、届くたびにすぐに会いたくなりすぐに電話していました。
私は月一回だけ自宅に帰れるので、その時にいろいろ買ってあげたいと思い、単身赴任生活を節約して子供のためにとお金を貯めて帰るたびに遊びに連れていっていました。
時間が経過するにつれて、私がいないことにもなれてしまい。電話しても子供は出てくれなかったり、妻は「今、私も子供も忙しんだけど何か急用?」と言われるようになりました。
やはり、人間は環境に依存される生き物ですね。あっという間に私がいないのが当たり前になってしまいました。
「あの時の涙はなんだったんだよ!」と思ったこともありました。
北陸は車社会で行動するのは、ほとんど車なのですが、私は車をもっていかなかったため、休日は徒歩圏内しか行くところがなく、冬は雪が深いため買い物に行くのも大変でした。レンタルDVDを借りるのも大変だったので、郵便で送ってもらうサービスが本当に役立ちました。
他の楽しみは、普通のスーパーの魚がおいしかったので、作って食べるのが楽しみでしたが、一人の食事はなれたもののやや虚しい思いにもなりました。
また、土日2日間、誰とも話さない休日とかあったりして、「声でるかな?」と声を出してみたりしていました。(笑)
そして、北陸の拠点に赴任したばかりの頃に「私辞めたいです」と言っていた社員を所属長にして、なんと1年で自宅から通勤できる異動して単身赴任は1年で終了し、戻ることができました。
もう単身赴任はやらないと心に決めましたが、今、思うと家族というものを深く考えるきっかけになりました。当たり前をありがたく感じることに気づきました。
この件で私の財産になったのは下記3点です。
- 何事もやってみることは大切だと思います。
- 楽な方ばかりを選ぶなら、自分から手をあげて難しい方を選んだことにより、子供を辛い思いにさせてしまったのですが、子供は自分の心の支えだと深く気づくことができました。
- 辞めたいと言っていた社員を1年で成長させる経験ができました。
ここ数年、子供も大きくなって、一緒に遊んでくれなくなったので単身赴任したい、と思ったりしています。(笑)
自分にあっている仕事とは本当にあるのか?
就活をはじめたばかりの会社見学に来た学生さんやバイトで自分の進む道を悩んでいる人によく話してあげていたことです。
私のサラリーマン経験ですが、
- 医療機器卸業 3年
- 医療機器メーカー 3年
- カタログ通販 17年
- 健康食品・化粧品通販 9年
このような経歴で医療機器業界6年、通販業界26年と2つの業界しか知りません。
32年サラリーマンやってこの程度です。
私は20代の若い頃に「いろいろな業界を経験してみてから将来を決めたい」とか、「1つの会社の中でもいろいろな部署を経験してから、自分に向いている仕事を決めたい」と思っていました。一つの部署の仕事を本当に理解するには最低3年はかかると感じています。これは経験からも思います。
だから「石の上にも三年」という言葉があるのでしょうね。
自分の経験のためにと会社が3年ごとに仕事を変えてくれていても3回変えても9年も経験することに費やすことになります。部署が10ケ所あれば30年もかかり、そこから、この部署でやりたいと思ったころには定年を考えはじめる50代のおじさんになっています。
もしいろいろな業界、いろいろな部署に仮に1ケ月や1週間づつ勤務して経験したら向いている仕事をみつけられるかというとそれも浅くしか理解できないと思います。
本当の役割やその業務の深さを理解してなければ、自分の知識にも経験やスキルには絶対にならないと思います。
「それなら、どのようにして自分にあっている仕事を見つけるか?」ですが、残念ながらそのような仕事は探しても探してもないのだと思います。
ということは、サラリーマンの人達はやりたくもない、つまらない仕事を我慢し続けているかというとそうでもないんです。同じ仕事を3年以上続けている人で我慢して時間の切売りをしている人も一部はいるかもしれません。
仕事に向き不向きは基本的にはあまりないと思います。
人間は環境に依存する生き物なので、与えられた仕事に依存するというか適応するようになり、それを続けることによって体験が知識になり、スキルになり、プロになっていくんだと思います。
そして、何年も長く経験し、プロになったことでその知識とでスキルで転職したりするんです。私もそのようにして転職しました。
若い頃に僕は「コールセンターに勤務して、クレームを多く対応したいんだ」と目指していたら、気持ち悪いですよね?
私も若い頃に考えてもいなかったサラリーマン経歴になってしまったのは、適応したり与えられた環境で知識やスキルを磨いただけなのです。
今、考えるともっと若い頃から目標をさだめて勉強もがんばれたらなあ~と思ったこともありますが、それで進す道を見つける方もいるとは思いますが、世のサラリーマンは適応していく中で経験と同時にスキルを磨いてきたのだと思います。
サラリーマンの良いところは「基本的な収入が安定し、安心して勤められることです」ですから、このような状況だからこそ、じっくりとスキルを磨くこともできますし、会社によるとは思いますが、新規事業やチャレンジも手をあげれば出来る会社はあると思います。
但し、チャレンジできるとか、新卒がすぐに活躍できるとかを全面に出して過ぎて求人している企業はちょっと怪しいので注意が必要です。
だから、サラリーマンでもフリーランスでもまずは何でも失敗してもチャレンジしてみることや、やってみることが大切なのです。
入社した会社に不満があっても、やり続ければ自信が出てきますし、そのうち「この会社、俺が変えてみようか!」と気持ちが沸いてきますそいたりします。
多くの経験はできないので
- 就活も良い会社と感じたら、精一杯応募してみる
- 転職も良い会社と感じたら、精一杯応募してみる
- 転勤や部署異動の打診があったら、まずは飛び込んで精一杯やってみる
- 昇格の打診があったら、できるかどうかよりまずは飛び込んで精一杯やってみる
これを実践することをおすすめします。
サラリーマンでも自分の進む道を決めることができる!
私がサラリーマンでも自分の進む道って、自分で決められるって感じたのはサラリーマン生活を20年過ぎてからでした。
サラリーマン時代は少し生意気だったのですが、入社して1ケ月で部署異動があり、
しぶしぶ異動し、3ケ月後には転勤の話がありました。
これからがんばろうと思っていた矢先に「なんだよ~!」と思い、当時の上司が
「自己責任だけどきちんと理由の書面を出して、断ってみたら?」と言ってくれました。なるほどと思い、入社したての会社でしたが提出しました。
そのあと何の音沙汰もなく、3ケ月が経過し、転勤なしになったと安心しはじめたところ、突然、会ったこともない役員がやって来て、「社命を断るとは何ごとか?」と上司が叱責され、その後は「異動するか辞めるかだ!」と言われました。
そこまで上司がかばってくれました。
上司ががんばってくれたものの上司のことも考え、異動することに了承しました。
そんなことがあってから、もう会社都合の異動はしたくない、それなら自分から進んで異動する方がいいと考えるようになりました。
この発想をすると会社全体の視野で考えるようになりました。
会社内でうまくいってない部署があれば、自分なら「このようにすればよい」とか「異動させればよい」などと偉そうに考えるようになりました。
そのようにしていると今度は自分が評論家のように感じてきて、結局は他人事と逃げているように感じるようになりました。
「これじゃあ、自分はずるいんじゃないか?」と感じ、「自分がその部署に行ってやってみたら、いいんじゃないか!」と自分に問うようになりました。
そして、その後の転勤は「自分が行きますよ!」と進んでうまくいっていない部署に転勤するようにしました。
これで実際に転勤してみるとやはりうまくいっていない部署は仕事も人間関係も問題が多く、実は本当に大変でした。
私の行動を役員に密告するような部下がいたり、クレームや問題発生時には逃げる社員ばかりだったりとひどい状況でした。火中の栗を拾った自分を後悔した日が何度もありました。
出勤日の80%はもう自分にはここではできないと思いながら帰路につく日が続きました。
当時の私の心の支えは、唯一尊敬する役員(僕を強制的に異動させた人ですが...)から言われた言葉です。
「判断するときの選択は簡単な方と難しい方があったら難しい方を選びなさい、それが必ず個人も組織の成長にもつながる」という言葉でした。
自分から進んで異動したことは、難しい方を自分は選択したから正しい!どうにかなるはず!と思っていました。
不思議なもので、続けているとどうにかなってくるんです。
周囲が協力してくれるようになっていき、結束も強くなり、問題だった人間関係もうまくいきはじめました。
あらゆる問題と真剣に向き合うことでひとつ一つ解決していき、それと同時に仲間が支援してくれるようになり、本当に心から感謝したものです。
『自分の道を自分で決めて進むとがんばれる』
『苦しいけど、続けていればどうにかなる』
だから、僕はこれを信じてまた、苦しみ、難しい方を選択して進もうと思います。
ブログって自分を振返り、次に進むことにつながりますね。
人は序列を学び、序列で苦しむ、せめて序列を人のために役立てる
人は残念ながら序列をつけたがりながらも序列をもっとも恐れる生きものです。
飼われている犬はそこに一緒に住んでいる人に序列をつけるというけれど、人間も一緒です。
そして、自分が関わる人の集まり、その集合体の中で序列の中のどこの位置なのかを気にし続け、しまいには自分が下位の位置にならないことを懸命に考え、悩んでいる生きものなのではないかと思うのです。
「それは、家庭の中でも...」
「学校でも、特にクラスの中でも...」
「会社でも、部署内であれば更に意識が強いでしょう」
今の保育園等でもあるのかもしれませんが、私の知っている保育園にはそのようなことがありませんでした。
それが、小学校に入ってから、少しずつ競争に巻き込まれていくのです。
それは親にも原因があると思いますが、学校の教育にもテストの点数などの順番を意識させるものが増えていきます。
そして、中学になり、クラスの順位や学年の順位を突き付けられ、自分の順番を意識付けされるのです。
このようにして、全ての人が序列の世界に突入していくのです。
これがいじめの温床になっているとも感じます。
最近では「スクールカースト」なる学校の序列の言葉が出てきて、「今の子供達はそんなことまでするのか?」と私達、大人が驚いたりしていますがその序列を学んでいるのですから、このようなことが現れるのは当然のことなのでしょう。
そのような序列の教育をしているのですから...
私のことになりますが、今までこの序列の上位を目指してサラリ-マンを続けて、部下もできるほどの位置も経験しましたが、結局、自分もやっていることは、組織を作り、上下をつけて「序列」で統制することでした。
組織みんなで一つになってがんばり乗り越えて、涙が出るほどの経験もしましたが、この「序列」は常につきまとっていました。
私は「人間がすべて平等が正しい」と言いたいのではないのですが、会社という世界の中でみんなが心から納得できる方法を「序列」以外で見つけたかったのです。
会社というものは上司部下の「序列」が当たり前で、それはなぜ必要なのかもよく考えない人や経営者が組織という名の身勝手な「序列」を作っているのです。
だから、対人関係のトラブルが発生しやすくなり、ハラスメントが誕生してきたのだと思います。
「なぜ、そのような組織なのか?」
「なぜ、その人が経営するべきなのか?」
「なぜ、その人が上司なのか?」
「顧客のためになる組織なのか?」
「従業員のためになる組織なのか?」
「経営者や上司に都合のよい組織になってはいないか?」
これを全て組織の経営者や上司が部下にきちんと説明し理解
できる組織であるべきです。
その組織を作るために上の立場の人間は苦しむべきなのです。
たとえ数名の部署でも必ず全員に説明できる「組織(序列)」は作れます。
とことん悩めば少しの光が見えてきて、そこから、部下の成長や組織の発展や目標達成までイメージできます。
悩み苦しむことは絶対に裏切りません。
部下や人ときちんと向き合って、部下であろうと相談し考えれば答えは必ず出るものです。
人間間の関係が希薄な時代だからこそ、このような関わり方が想像以上の共感につながるものです。
横並びに道を歩くことについて
私は子供の頃からあまり友達の多くと一緒にいることは好きではありませんでした。
せいぜい自分と友達1人の2人でいるのがもっとも好きでした。
わかりませんが結構そのように思っている人は多いのですかね?
私の家が2人兄弟だったことも影響しているのかもしれません。そして、いちいち強く主張しなくても自分の声や意志は必ず聞いてくれる環境だったからなのかもしれません。
また、集団でいると仲の良い友達でも主張をぶつけあうことになり面倒だし、意見が対立すのが本当に嫌なことも理由の一つです。
このことと関係ないかもしれませんが、特に今でも嫌いなのが友達でも会社の人間でも3人以上と道を歩いているときに3人とか横に広がって歩いて、前から来る他人の邪魔になっているにも関わらず、あまり避けようともしない行動が本当に嫌なのです。
まるで、単に道を歩くだけなのに自分の優位性を競いあっているかのように横一列を死守しようとしている姿が人間同士の低次元のくだらないプライドのぶつかりあいを見ているようで人間のみっともない部分が見えるように感じるのです。
これは女性よりも男性によく見える行動だと思いますが、特に若い男の子が目立つのはくだらないプライドのぶつかりあいなのでしょうね。
このような小~っちゃなプライドが男は本当に面倒くさいです。
そして、同じ男として情けないとさえ思います。
だから私は複数で道を歩くときにはすぐに後ろに下がるようにしています。
このようにすぐに下がるようにしたときには、自分自身も劣等感のような嫌な感覚を感じたこともあります。
いじめられるときの最も初期の段階のような嫌な感覚です。
このように感じるから横並びに並んでしまうのかもしれませんね。
これを気になる方は列の後ろに下がるのではなく、1人ででも集団の前に行ってしまうことが回避策として良いです。
また、あまりおすすめではありませんが、出張先での飲み会で2次会に行くことになり、その場所に移動するときが本当に嫌で歩きながら後方にゆっくり移動して途中で自分だけ横道に外れて一人でラーメン屋さんに行ったことさえあります。
次の日にいろいろ言われますが...
このような行動1つとっても自分は本当は社会に適応したくないんだと思うのです。
つまり質の悪いわがままなんだと思うのです。
私はことなかれ主義で平和主義で人と対立したくない典型的な日本人なのですが、一方で他人の行動を批判し自分を正当化しながらも結局は自分の都合の良い場所ばかりを求めるわがままなのだとこれを書きながら感じてきました。
本当は社会に適応したくないわがままだけなのだろうか?
ちょっと違う気もしますが、わからなくなってきました。
チームワークは横並びであるべきだと思います。
責任は縦並びであるべきだと思います。
社会における「素直」って必要なのかな?
これって他の人にもある感覚なのでしょうか?
私は自分自身のことだと世の中に対して消極的で神経質になる性格です。
例えば、お店で購入したい目的の商品を探していてどこにあるのかを店員さんに聞けなかったり、それが100円ショップなどの安い物なら尚更聞けないのです。
「たった100円の物なのにどこに置いてあるか聞くのは、店員さんに嫌がられるのではないか?」と考えてしまうのです。
このような悩みが本当にいっぱいあります。
スーパーマーケットで値引きシールの貼ってある物を買うのも心が引けます。レジで「50%引きです」などと店員さんに言われるものなら、他の人が聞いているのではないかと気になり、恥ずかしくなって赤面までしたこともありました。
このような感覚を持っているので、昔つきあっていた人に「生理用ナプキンをコンビニで買ってきて」と頼まれたときにはもう死にたい思いにまでなりました。
レジで一生懸命に「頼まれたから買いにきたんです!」と必死に伝えたい思いをこらえているうちに顔が赤くなっていき、今度は赤面した自分を抑えようとする程、どんどん耳の先端まで赤くなっていくのを感じてしまい、普段は目をあわさない店員さんにまで気づかれてしまって、手を震わせながらお金を払って、ダッシュでアパートまで帰ったこともありました。
しかし、就職して会社の仕事として、このようなちょっとした買い物でお店に行くとすぐに店員さんに商品の場所を聞けたり、どのような物でもナプキンでも恥ずかしい思いになることなく買うことができるのです。
そして、「自分は成長したな~!」等と思うのですが、本当の自分が成長した訳ではないのです。
「このような感覚は私だけのものなのだろうか?」と不思議に感じます。
その理由は
「会社という着ぐるみを着ているから...」
「その行動は自分ではなく演じているだけだから...」
「その自分は本当の自分ではないから...」
等と考えても自分でもいまだにはっきりとした理由がわかりません。
なんとなくというか、おもむろにというか、恐らくまではいってないと思うのですが、行動の責任を自分ではなく会社の責任にすりかえることが自分の中でできているからのように思えてきています。
「他人の仮面をかぶればどんなこともできる!」という弱い自分の心理が働いているのだろうと思います。
これこそが「他人のふんどしで相撲をとる」ことなのでしょうね。
このような感覚はこれまで誰とも共有したことはないのですが、誰でも思うことなのでしょうか?
私だけの感覚なのでしょうか?
私はこの感覚を持っていなければ、恐らく社会では通用しない人間のままだったと思います。気が弱かったり、気にしいだったりする自分をこの感覚が全て補って普通の社会人として過ごせました。
私の人生をもっとも守ってくれた盾なのだろうと思うのです。
この盾を長い間使い続けてきたので、この盾までも自分と思い込んでしまうまで使いこなしていました。
そして、気がつくと自分の本当の心というか気持ちを素直に表現できなくなってしまってるのです。
「偽りの自分」「幻想の自分」「盾に守られた自分」が本当の自分を閉じ込めてしまったのだと思います。
そもそも、自分の「本当の心、本当の気持ち」が素直なことなのだろうかとわからなくなってしまいました。
そして、その「本当の心、本当の気持ち」を表現することに社会は認めてくれないのではないかと思うのです。
この答えを見つけるにはまだまだ時間がかかりそうです。
もっと肩肘張らずに笑って普通でいませんか?
私は子供の頃からよくニコニコしていると可愛がられました。
自分がニコニコしていると周りの人も優しいし自分も安心するから自然に笑顔が出ていました。
だから、大人になっても心から明るく笑うことができる人が大好きです。
そして、そんな人達と一緒に仕事をしていたいです。
こんな社会不適応な自分でもこのような人達のためならがんばろうと素直に思えます。
一緒にいると自分も安らぐし、相手も楽しくいてくれるのが嬉しいのです。
このようなことは子供は素のままにできますが、大人でこのようなことを素に出来る人はあまりいません。子供の頃はできていたのにできなくなるのが残念です。
いろいろな邪念というか立場というか、そのような余計なものがあるからなのでしょうね。でも誰もが本当に安心するのはこのような「心からの笑顔」や「心からの笑い」だと思うのです。
相手の心の中が「笑い・笑顔」から見えて安心できるからなのです。
「自分のような弱い人間が甘い環境を求めてるだけ!」と言われるかもしれませんが、これが何をするにも人と人が集まれば一番大事なことだと思います。
それなのに、社会では素直に笑えない大人が多いこと多いこと、本当に残念です。
◎器の大きそうな笑い方を意識して本当には笑っていない人
◎素直に笑う人をレベルが低いと思って評論や批判する人
◎人を常に疑ってばかり見て距離を置く人
◎笑うと負けとか相手に弱みを見せることだと思っている人
このような素直じゃない人達を見て本当は嫌な思いをしている人達がいっぱいいるのだと思うのです。
このような人達は共通していることがあります。
それは、人の上の立場に立っている人です。
そして、
▼自分が全て正しいと頑なでいる
▼他人には左右されないと突っ張っている
▼目の前の人よりも上の立場にいたい
▼自分の周囲の人をバカにしている
人の上の立場になるとこのような考えをはじめるから厄介なのではないかと思うのです。
このような偉い人の前で無邪気に笑ったり、笑顔を見せると大抵痛い目に合います。徹底して甘いだなんだと批判されたりします。
また、このような人達を少しでも笑わせてしまうと自分を笑いでも超えられることを嫌うので、その後にまたまた批判されたりします。
まるで子供のイジメのように自分が優位になった途端に下位の人を支配できるとでも勘違いしてしまうのでしょう。私なんかが言うのもなんですが、人の上に立っているのに「未熟な人」だと感じます。
人の上に立ってから、人は本質が見えてくるのかもしれませんが、これがほとんどの会社で行われ、今の社会をややこしくしているように思います。
このようなことが人間界なのでしょうね。
正直に言わせていただくと「その程度のプライド、その程度の人格、その程度の優越感の何がそんなにいいのですか?」と言いたくなります。
「面倒くさいから、普通でいませんか?」と伝えたいです。
もっと素直に生きれる世界を人の上に立った人が作ってくれれば私のような社会不適応な人間も社会に入っていきやすいように思うのです。
だから、こんな余計なことを考えながら、落とし穴にハマったり、たまたまよけられたりしながら進んでいくしかなかったのです。
もっと人の上になった人が自分の価値観や自分の小さな世界の裸の王様になろうとせず、あらゆる人を受け入れることをしていけば私のような社会不適応な人間ももっと自然に笑顔で過ごせる社会になるのではないかと思うのです。
もっと肩肘を張らずに人の上下とか余計なプライドを持ち過ぎず、シンプルに笑っていられる環境をつくりましょうよ!と思うのです。